「私」のこれまでと

これからの話

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「私」のこれまでとこれからの話(超長文です)

私はどこにでもいる平凡な子供でしたし、
「頑張ること」をあえて避けてきた人間でした。

頑張れば頑張るほど
つらくなる経験を小学校時代にしていて。
がんばるのが嫌いでした。

他の政治家HPのプロフィールと比べても、
華々しい経歴があるわけでもなく、
大学時代に留学するわけでもなく、
勉学に日夜励むわけでもなく、
今でいうと意識低い系でしょうか。

パチンコ業界から政治の世界に入ったきっかけは、
ほんとにたまたまというか、
知り合いからお誘いがあったから、
という安直な理由。

そんなこんなで、いざ秘書になってみたら、
心が折れそうになるようなことばかりでした。

それでも、

今日まで政治の道で活動してきた中で、
「頑張っている人」をたくさん目の当たりにしてきました。

 

かつて頑張ることを避けていた人間が、
自分もあの人たちのように頑張ろうと思えたことは
皆さんとの出会いのおかげです。

頑張ることが幸せだと感じるようになったのは
頑張る皆さんが隣にいてくれるからです。

人に対して優しくなれたのは家族のおかげです。

この文章をお読みいただいた後に、
ああ、内山航ってこういう人なのねと、
多くの方に届いてくれればいいなと思います。

昔の恥ずかしい話もありますが、
ぜひ、気楽に読んでいただけたら嬉しいです。

【要約】私のこれまで

  • 小学校時代、いろんな役を押し付けられ、つらい思いを。
  • 押し付けられるのが嫌になり、「頑張ること」も嫌に。
  • 「一度の挫折は2度目の挫折を生む」野球部退部
  • バイトで出店の屋台を手伝うも、あまりにも仕事ができずクビに
  • 頑張らなくていいポジションを獲得した高校大学時代
  • 就職氷河期の就職
  • パチンコ店員時代、生意気すぎて周囲から孤立。
  • パチンコ店から国会議員秘書へ
  • 秘書から政治家へ
  • 新聞配達と政治家

【スピンオフ】

  • 倫理法人会、青年会議所での出会い。
  • 脳出血と親子
  • 私のいない時代を生きていくこども達へ

頑張ることが嫌いな小中高、そして大学時代

私は元々、頑張ることが嫌いでした。
というのも、小学校時代の話まで遡るのですが。

当時はちゃんと勉強して、
テストで点を取ることもできていたのですが、
それゆえに学級代表とか生徒会とか、
そういうみんな面倒と思うような役を任されていて。

学級委員とかってなんとなく、
「頭のいい人がやる役目」みたいなイメージがあって、
必ずしもそんなことはないのでしょうが、
当時の私はそんな風に感じていて。

自分がとても損をしているような、
そんなことを日々感じていたのです。

学級代表だからクラスのみんなをまとめなきゃいけない、
でも、誰も言うこと聞かない、まとまらない。

いじめが起きたら学級委員が率先して
問題解決しなくちゃいけない(ような気がしていた)

でもなかなか解決できない。
当時はいじめを放置している周りの子どもたちにも責任がある、
という風潮でその責任も大きく、
学級委員長にのしかかってきていました。
(というか少なくとも私はそう感じていた)

そんな役割がほんとにつらくて。。
もう頑張りたくなくなったんですよね。

中学校時代も目立ちたくなくて、
わざとテストで悪い点数を周囲に伝えていたくらい。

 

高校に入ってから、野球部はつらくて辛くて。
当時の監督は学校の先生ではなく
関東から来ていた方で本当に厳しかった。

そして、1年生の秋、
友人が退部するのに合わせて私も退部届を。

この時も本当につらくてやっていけないというよりは
友達が辞めるからいっしょにやめてしまおう~、
という程度の安直な感じでしたが。。

監督に言われた
「1度の挫折は2度3度の挫折を生むぞ」
という言葉がずっと頭の中に残っていて、
それ以来、自分から何かをあきらめてしまうこと、
それはやめようと思って今日まで生きて来ています。

 

さて、野球部を辞めてからは状況が好転して、
頑張らなくていいポジションを獲得。

屋台のバイトをして
玉ねぎが切れず、キャベツが切れず、ご飯が炊けず、
さんざん怒られ鉄拳を食らい、
3日でクビになったりもしましたが、
「自分からはやめてない。」と逆に誇らしかったくらい。

勉強はしない。成績は赤点でも気にしない。
通知表のほぼすべてが赤点になって、
こんなもんだな~、みたいな高校時代。

当然大学に進学するという選択肢もなく、
かといって働きたいわけでもなく、
専門学校かスポーツ関係の何かないかな~、程度。

最後は担任の先生から、今の段階から大学は無理!
と言われたところから一念発起。
3カ月の集中勉強で大学に入りました。

その大学の選び方も、どこなら入れるのか?
という将来のことを全く考えていない選び方。

自分の実力を客観的に見て、
今から勉強して入れる一番高いところで、
教科が自由に選べるところ、
みたいにずるがしこく戦略的に大学を選びました。

当時の新潟大学経済学部は、
好きな4教科を選んで受験ができるという、
今では信じられないような1次試験だったのです。卒業時も卒論なし。

私は国語が受験科目に入ると、
とても受験できるような状況ではなかったので
最初から除外していましたが、
理系が得意なのに文系にいました
(野球部は暗黙で理系禁止でした)ので、
そのせいで受験できる大学がそもそも少なかった。

 

大学時代もサークル、アルバイト、
毎日友人と朝までドライブ、
ある意味で人生楽しんでいましたが、
4年次で卒業に必要単位が40単位も足りなくて、
結局、4年後半にギリギリ取得できて何とか卒業できました。

その後も就職氷河期を理由に、
就活なんて全くせず、
流れでパチンコ屋さんに拾ってもらって就職。

 

そんなこんなで一生懸命頑張るとか、
そんなことは常に避けてきつつ、
それでも自分なりには満足した青春時代でした。

就職氷河期の私たちって
もちろん就職の時のつらさはあったと思うのですが、
それ以上に「ゆとりが大事だと議論されていた世代」で、
働き過ぎの日本人、頑張りすぎの日本人、
幸せになれない日本人、
頑張るのはかっこ悪い。

こんな意識が蔓延していたような気がします。
私の周りだけかな。

就職が氷河期だったことよりも、
そういう時代の影響を色濃く受けているような気がします。

パチンコ屋さんの店員から政治の世界へ

大学卒業後はパチンコ店でしばらく働いていました。

生意気だった私は、先輩たちとの20人くらいの飲み会で
ちょっと生意気なことを言ってしまい、
先輩を怒らせ、孤立することに。
まあ子どもでしたね。私。

それでも辞めずに続けてこられたのは
高校時代の監督の言葉がったからです。

後輩たちが入ってきてからは状況も変わり、
楽しいパチンコ屋時代を過ごしました。
朝方まで働いて午後まで寝る、
みたいな生活も悪くなかった。

そんな折に、たまたま大学時代の先輩から連絡があり、
「国会議員の秘書として事務所を手伝ってみないか?」
そんな突拍子もないお誘いがありました。

なぜ、そんな突然?
今思えば、単純に人手が足りなかったのでしょうが、、

「秘書って何するの‥?」
そんな不安もありましたし、

政治に興味があるか、と聞かれても
真っ先に「ありません」と答えました(笑)

「新しい世界」という意味では興味がありましたが。

その誘いを断ることも簡単だったと思います。
が、今断ったら、政治の世界に関わることはもう2度とないだろうなと。

そして
東京の民主党(当時)の
党大会パーティーに参加したことをきっかけに、
数か月後政治の世界へ足を踏み入れます。

政治家の秘書としての活動がスタートです。
24歳の時でした。

いざ入ってみた地方政治の世界は、
東京のきらびやかさとは雲泥の差。

泥臭い草の根活動みたいなものが大半でした。

しかし、さまざまなことを経験する中で感じたのは、
多くの人とぶつかりながらでも、
手に入れなければならないものがあること、
貫かなければいけない信念のようなものが
政治の世界には大切なのだということです。

どの世界でも一緒なのかもしれません。

この経験は今も私の信念としてあり続けています。

秘書から政治家へ

約10年間の秘書時代たくさんの経験をしてきました。
そんな生活をするうち、
自分ならこうするかな、自分ならどう判断するだろうか。
という気持ちが芽生えてきます。

そんな中、当時の民主党は消費税の増税法案を巡って対立。
分裂し、「国民の生活が第一」という政党が生まれました。

2012年冬に行われる週銀選挙に向けて候補者擁立を行う
新潟の実質的な責任者だった私は
いろいろと駆けずり回りましたが、なかなか見つからず。

それならいっそ、自分で出てやろうじゃないかと、決意。
(すごくざっくり書いてありますが、
本当は紆余曲折いろんなことがありました)

ここから政治家としての人生が始まります。

政治家の覚悟はいつ練り上げられるか

2012年の選挙で落選。浪人生活が始まります。
その時にもう一度、
秘書として戻るという選択肢もありました。

しかし、一度立てた旗を降ろしたくなかった。

どうせなら自分の船をもって
立ち上がってみようということで、
新聞配達をしつつ、
家族6人で助け合いながら生活を始めました。

新潟市の市議会議員として
当選するのが2015年ですので約2年。

新聞配達をしつつ、政治活動を続ける日々でした。
この間支えてくれた家族、
後援会の皆さんには本当に感謝です。

当選後は、政党は無所属で8年過ごしました。
この間新聞配達はずっと継続。トータル10年。

40歳になる前日までと決めてやり切りました。
それくらい金銭面では大変でしたね。

そして
2023年の3期目の選挙で自民党公認となり、
今に至ります。

私が秘書として仕えた
参議院議員だった恩師から言われた言葉あります。

政治家は
「井戸を掘った人を忘れてはならない」
恩とか縁とかがとっても大事ということです。

そして、その後にこう言ってくださいました。

「でも政治家は、そう言う縁とか恩とか世間体とか、
そういうものを全部踏みにじってでも、
国家国民、日本のためにこうあるべきだと、
信じるもののために生きる。
それを貫くのが政治家だと」

民主党の秘書になり、衆議院の選挙も野党側で出馬し、
無所属を経て自民党に移った私は、
これまでの恩とか縁を踏みにじったかもしれない。

その過去を変えるつもりもありませんし、
隠す必要もないと思っています。
たとえ自分にとってマイナスになろうとも。

私はあらゆる懸案に対して
反対する政治スタンスを取らずに過ごしてきました。

反対よりも賛成を
反対よりも対案を
常に対案やアイデアを考え続けられる政治を志向します。

考えつづける人を応援できる政治を
前に進みたい人をそっと応援できる政治を

頑張れる人を縛り付けるのではなく、
頑張る人が報われる社会であるべきだと思います。

頑張るということ。~倫理法人会と青年会議所~

「頑張る人が報われる社会」

過去、あれだけ頑張りたくなかった自分が
今では「頑張ることは素晴らしい」
そう思うようになりました。

これまで書いてきた経緯はもちろんですが、
一つ目は、
倫理法人会に出会ったこと、が大きかったかなと。
25歳くらいでしたかね。

倫理法人会について、
一言でいうと「より良く生きる」ということを目指し、
人との関わり方や
考え方を学ぶことを目的とした経営者の集まり。
一般社団法人です。

ここではモーニングセミナーといって
朝6時に経営者が集まり勉強をしています。

参加される方が経営者ということもあり、
自分よりも年上の方ばかりでしたが、
皆さん本当に頑張っていらっしゃって。

朝6時からセミナーというだけでも
当時の私には大変だったのに、
皆さん真剣に頑張っている。

頑張っていることが普通。
頑張っていない人なんていない。
いくら頑張っても誰にも足を引っ張られない。

なんかがんばるってかっこいいなと。

25歳の私には衝撃的に映ったのです。
そういった人に出会えたのは運がよかったと思います。

もう一つは新潟青年会議所。

倫理法人会の出会いは25歳でした。
政治の世界とか倫理法人会の世界は、
私よりずっと年上の人たちがすごく頑張っていました。

がんばることも好きになっていた私ですが、
周りに若くして頑張っている人がいなかった。

「若い世代は頑張っている奴がいない」

そう思っていました。

やっぱり高度経済成長を支えてきた世代は凄くて、
今の若い人たちは頑張っていないんだなと、
そんな偏見を本当に持っていたんですよね。

そして34歳の時に青年会議所に出会い、入会。
若い人たちと一気に出会うことになりました。

正直、入った当初はこの年になってこんなに怒られるの!?
みたいな衝撃が。。

と同時に仕事が終わってから夜中まで真面目に会議して、
議案を書いて議論して。
会合もたくさんたくさん。

「私の同世代にこんなに能力があって、
こんなに頑張っている人たちがいたのか!」と。

どうも、私は見えない世界を
安直に見てしまう癖があるようです。反省。

まあそれが
新しい世界に踏み出すきっかけをくれているのですが。

頑張ることに対して
後ろ向きだった昔の自分。

たくさんの人たちと出会い、
世界が広がり、人生観すらも変わった今の自分。

頑張ることは素晴らしい。
頑張ったほうが楽しいです。感動もそこから生まれる。

そして頑張る人と一緒に仕事をすることは、
もっと楽しいし素晴らしいと思います。

そんな思いから、新潟に頑張る人を増やしたい。
頑張る人が報われる社会を作りたいのです。

脳出血と親子

また妻の大げさな電話だと思いました。
息子のこととなると極端に心配症になる妻です。

空手の練習中に、息子が頭痛で蹲っていると。
救急車を呼んだからすぐ帰ってきてほしいと。

空手で頭に衝撃が入ったのかな?

私はこれから懇親会の乾杯が
まさに始まるところなんですが。。
と思いましたが、皆さんに謝って自宅へ。
さすがに救急車呼んだのに帰らないわけにもいかず。

救急車の行き先は西新潟中央病院でしたので、
車で向かいます。

向かう途中で妻からの電話。

息子は脳出血らしいと。

脳出血??

たしか、脳から出血するあれか?
なんで出血した?空手で頭を打って??
頭が混乱しながらとりあえず病院へ。

息子は寝ていました。
(正確には寝ているように見えました)
呼吸はあります。

先生のお話だと、
念のためにCTを取ってみたら、脳から出血があると。
(こどもの脳出血は極めて珍しいらしいです)

とにかく、うちの病院でできることは何もないので、
新大病院へ行ってくださいと。

脳出血しているのに大丈夫なのか?
今も出血が続いているのか??
様々な疑問をぶつけますが、
先生も何もわからないとのこと。

救急車を待ちます。

待つこと1時間。
気の遠くなるような時間でした。

そして新大病院へ。

新大病院でもCTを取り、
脳からの出血はとりあえず止まっているらしいとのこと。

では、どうするのか、と聞くと。

脳から出血した原因がわからない。
わからない以上、頭を空けるわけにはいかないとのこと。
再び出血してしまうリスクがあるため。

出血が止まっている以上、このまま朝まで様子を見てみると。
朝ひょっこり起きてくる可能性もあります。
といわれました。

なるほど、そんなこともあるのか、
しかしそのあと、
日々をおびえながら過ごさないといけないのか?

いろいろな不安を覚えながら
一緒のベッドで朝を待ちます。

当然一睡もできないわけですが、
朝方、息子の息が荒くなって、寝返りを打って、
そのまま呼吸が止まってしまいました。

慌てて、ナースコールを。

お父さんとお母さんは部屋から出ていってください!
と外に出され、1時間。
先生が説明に来てくれて。
(最悪の事態もこの時点で覚悟しました。)

先生の説明では、
脳出血が再び始まったので、
薬で脳圧を下げていますとのこと。

そして、
出血の原因はわからないが、
命にかかわるので頭を空けますと。

手術は3時間くらいだったでしょうか。

無事に手術は終わり、
脳の出血は止まり、出血した血液は外に出されました。

出血による脳の圧迫も最小限にとどまったようでしたが、
体にどのような影響が出るかは未知数でした。

一命をとりとめた後の数カ月は、
できることを増やしていくための作業でした。
手が動くようになるまで2週間くらいだったかな。

最初に書いた言葉は「家に帰りたい」でした。

しゃべれるようになるまで1カ月程度かかったでしょうか。

ずっと夫婦付きっ切りでした。病院にずっといましたね。
上の子どもたちがいなければ回らなかったと思います。

どれくらい長かったかというと、
1面もそろえられなかったルービックキューブを
6面で1分くらいで揃えられるようになる、
それくらいの時間でした(笑)
それくらい病院ではやることがない!
やっちゃいけない。パソコンもダメ。

入院中、附属小学校の保護者の方や、
同じ学年のみんなから5千羽鶴がとどきました。
最近までずっと家に飾ってありました。
本当にうれしかったです。

その恩返しの意味を込めて、
退院後、父母教師会(PTA)に入りました。

書き忘れていました。
脳出血の原因は、
先天性の動静脈奇形という血管の異常でした。
その部分はすべて切除したので今後は大丈夫です。

私がいない時代を生きる子どもたちへ

退院後

無事に退院してからも学校になじめるか、
いろんな心配がありました。

運動はできませんでしたし、
できないことも増えました。

本人もそれを感じているようで
性格も変わったなと感じています。

親としてできることは何か。

と考えた時に、
思い浮かんだのが、勉強でした。

成績を上げようとしたわけではなく、
なんでもよいので、
自分でできる自信をつけてもらいたかった。
というのが本音です。

そして、その時に一番意識したのが、
「お父さんはいつまでも
お前のそばにいられるわけじゃない」
ということです。

私が勉強を教えれば成績が上がるのはわかっていましたし、
今まで勉強していなかった人が勉強するわけですから、
成績が上がるのはある意味当たり前です。

しかし、私がいなければ何もできないようなら、
それは意味がない。

私がいなくても、勉強以外のすべてのことに挑戦できる、
そんなスキルを身に着けてもらう必要がありました。

そこで始めたのが、
「自分で目標を立て、
自分ですべての予定を組む」練習です。

目標の立て方、予定の立て方を私なりに指導していきました。
予定を組む力が付けば、私がいなくても
問題解決の手法を自ら探せるのではないか、
という考えからです。

朝5時からの勉強が始まりました。
勉強よりも予定を立てるほうがよっぽど大変です。
子どもたちはこれがすごく苦手です。

成績はもちろん上がりました。

が、それは結果として現れたから「良いこと」であって、
これを目指さないほうが良いと個人的には思います。

(一般的な学習塾はこれを目指すべきだと思いますし、
それが存在意義だと思いますので否定しませんし、
むしろリスペクトしています)

息子の自信も回復してきたように思います。
自分で自分のことを決められるようになってきました。
判断ができるようになってきたなと感じます。

小学校の卒業式では、
学年の誰より大きな声で返事をしていました。
最近で一番うれしかったことです。

そんな息子ももう高校生です。

そして生まれる自由塾「IKINUKI」

この「目標と予定を立てる技術」は、
非常に重要であると同時に、あらゆる場面に使え、
有用性が高い技術だなと感じています。

これをいろんな子どもたちにも伝えたいなと。
そう考えるようになりました。
そんな塾があったらいいなと。

こどもたちに、自分で判断したり決断したりする力がつき、
目標を達成するためのプロセスを自分で考える力が付けば、
当然成績は上がります。

そして、その力は塾を卒業した後もずっと残り、
勉強以外でもいくらでも活用できます。

地域に還元できるものも多いです。
地域の方と子どもたちとの橋渡しもできます。

こどもたちにとっては、
地域の方との触れ合いと同時に
大人の経験を知る場として。

地域の方にとっても
子どもたちを通して社会との接点を増やす居場所として。

いろいろな人が集うことによって、
あらゆるものを生み出せる場所になっていけたら。

そして、私にとっては長年の夢だった
学校の先生のようなことができますし、
何より、私の人生の豊かさを
増やしてくれる一つの趣味として。
(私、勉強教えるのが好きなんですよね。)

みんなにとって
プラスであり続けられる居場所がいいなと。

ボランティアではなく、
手伝ってくれる人みんなに
メリットがあってほしいと思います。

そのメリットを享受するために
いろんな方が集ってもらえれば。

町内会長のナマラエンターテイメント、
江口歩さんに代表になっていただき、
私はその応援者です。

この地域塾「自由塾」の名前は「IKINUKI」にしました。

 

最後に「IKINUKI」に込めた思いは。

「息抜き」ができる居場所であって
「生き抜く」力が付く場所。

「息をぬいて」取り組もう、
そしてみんなで不透明な時代を「生き抜こう」

「息を吸うように吐くように、
頑張りすぎず手を抜かず、今日も心の向く方へ」

プロフィール

内山 航(うちやま こう)

翔政会

自由民主党(公認)

1981年6月11日(中央区近江出身)
内山写真館(イタリア軒写真室)の長男として生まれる(41歳)

妻•こども2人(上のこどもたちはすでに独立し、孫2人)

愛泉幼稚園・上所小学校・鳥屋野中学校・新潟江南高校を卒業後
新潟大学経済学部経営学科卒業
会社員・国会議員秘書(約10年)・新聞配達(約10年)等を経て
2015年新潟市議会議員に初当選(34歳)
2019年新潟市議会議員に再選(3期目)

・自由塾IKINUKI 塾長
・新潟青年会議所第38代専務理事
・新潟信濃川ライオンズクラブ歴代会長
・新潟江南高校同窓会・後援会両副会長
・にいがた元気プロジェクト理事
・ツナグニイガタ発起人
・新潟中央倫理法人会所属
・新潟市消防団鳥屋野分団

活動実績

私の取り組みと
その実績をまとめています

内山航の取り組みマップ